現在位置 ホーム > 市政情報 > 人権・男女共同参画 > 男女共同参画情報紙「風」 > 男女共同参画情報紙『風』特別号を掲載
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取手市では、男女共同参画に関する情報や市内での活動状況を市民の皆さんや事業者の皆さんに広くお知らせして、男女共同参画に関する理解を深めていただくため、情報紙「風」を発行しています。
編集には、男女共同参画社会の形成に対して均衡ある視点を持った市民が編集員として参加し、取材活動・編集作業を行っていただいております。情報紙「風」は、毎号(11月1日号と3月1日号)、広報とりでに折り込んで市内全世帯に配布していますが、令和2年度11月1日号は広報とりで11月1日号内に特集記事として掲載されましたため、「風」としての発行と配布はございません。
今回、広報とりで特集記事掲載にあたり、「風」市民編集員が取材同行しました。取材後に市民編集員が編集したウェブ版「風」令和2年特別号を作成しましたのでご覧ください。
男女共同参画の歩みと女と男(ひととひと)それぞれの50年
広報とりで11月1日号 男女共同参画「個を尊重する社会のために」
男女共同参画情報誌『風』のバックナンバーをご覧になりたいかたは、下記のリンクをご覧ください。
男女共同参画情報紙『風』バックナンバー
PDFファイルなどは音声読み上げソフト等で正しく読み上げられない場合があります。必要に応じてお電話等で個別に対応させていただきますのでご連絡ください。
この50年、社会は変化と変革の波にもまれ、私たちの生活、価値観は大きな転換を求められてきました。その変化を男女共同参画の視点で振り返ってみましょう。その先に、私たちの未来がつながっています。
50年前。昭和45(1970)年は、大阪万博が開催され、都内で歩行者天国が出現した年です。高度成長期のピークにあり、家電の充実など国民生活が飛躍的に豊かになりましたが、その一方で公害など負の遺産が顕在化した年でもありました。
この年の女性の大学進学率はわずか6.5%、25歳から29歳の働く意思を持つ女性の割合は45.5%。社会に出て数年内に結婚し、専業主婦になることが一般的な女性の生き方と考えられていました。一方男性は、高度成長期に必要な労働力を確保するために、「終身雇用」「年功序列賃金」といった日本型雇用慣行のもと、「会社人間」「仕事人間」と呼ばれるような価値観や働き方が定着しました。核家族化の進行と相まって、「男性は仕事」「女性は家庭」という性別による固定的な役割分担の形成が進んだ時代と言えます。
女性を取り巻く状況の変化(PDF:454KB)(別ウィンドウで開きます)
女性施策の大きな契機となったのは、昭和50(1975)年。国際婦人年であるこの年、日本においても女性の地位向上の取り組みが本格化し、婦人問題企画推進本部が設置されました。やがて、「女性の地位向上」は「女性のあらゆる分野での社会参加」へと進展していきます。昭和61(1986)年に施行された男女雇用機会均等法は、職場における男女の差別を禁止し、均等な扱いを定めました。これを機に男女差のある雇用のあり方が問われ、女性が基幹業務に従事する機会が用意されることになります。とはいえ、実際に企業で働く女性のほとんどは補助的な事務職に就いているのが現実でした。
その後、1999年(平成11年)に「男女共同参画社会基本法」が制定され、男女共同参画社会の理念が示されました。「女性の参加」から「男女の参画」へ。参画は、参加することをさらに進め、方針の立案や決定などの「意思決定へ参加」することを意味します。
男女共同参画社会とは、“男女が、人権を尊重しつつ責任も分かち合い、性別にかかわりなく、あらゆる分野で個性と能力を発揮できる社会”です。人口減少や高齢化、社会経済の変化により、社会は男女があらゆる分野で協力しなければ成り立たたなくなっています。「女性」のための施策から「男女」の施策へ転換した男女共同参画は、男女という性別をも超え、個の多様性と自立の尊重へと進展しつつあります。
男女共同参画のあゆみ(PDF:80KB)(別ウィンドウで開きます)
人生の選択肢は人それぞれ。大切なのは、自分の意思で自立して選択し、それぞれの選択を尊重し合い、生かせる社会であること。それが男女共同参画社会です。
人生100年時代では、人生の様々なステージで、「人生の選択」が必要になります。選択肢が多ければ、人生はより豊かになるでしょう。
多様な選択肢を持つためには「学び」が必要です。特に、生涯のいつでも自由に学習機会を選択して学べる「生涯学習」は、自分を磨き、豊かにするだけでなく、地域社会の活性化、高齢期の社会参加など社会全体にとっても有意義です。
これからの男女共同参画社会は、人生100年を見据え、生涯教育など新たな課題を取り込みつつ、時代に対応して次のステージに向かいます。
「あなたは、人生にどんな選択肢がありますか?どんな選択肢を作りたいですか?」
次のコラムでは、男女共同参画の歩みと並行するように人生を切り開いてきた冨永正江さん、個を尊重しつつパートナーとして歩んできた並河さんご夫妻に取材し、それぞれの50年を振り返っていただきました。
今では自分の意志で職を選び男性も家事や育児を自然と担うようになってきましたが、ほんの半世紀前は女性に対して社会の扉はさほど開かれていませんでした。そのような時代の中で冨永正江さんは跡取り娘として厳格なお父様の下で育ち、お婿さんを迎えて家庭を持ち、子育てや親の介護など主婦業の傍らいろいろな社会貢献をしてきました。
冨永さんは、PTA役員やお母さまから引き継いだ婦人会の役員を皮切りに、当時国の政策としての男女共同参画を一歩進めるために女性の具体的な登用という風に背を押されて、茨城県水道料金問題審議委員や、広域下水道組合事業運営審議会委員を委嘱されました。冨永さんは、未経験の事に飛び込んでいくことで新しいことを知る楽しさを感じていたそうです。それがその後、県の女性の海外派遣事業への応募にもつながっていきました。まだ東西ドイツがあった頃で、西ドイツとフランスでの12日間の研修はまさに「百聞は一見にしかず」。いろいろと刺激を受けた有意義な研修でした。数年後、「茨城県女性のつばさ」の県会長を兼ね「茨城県女性団体連盟」の代表議長をする機会を得たことで、県の商業や生涯学習の審議委員を任じられ、学ぶ範囲がまた広がりました。
今回は、女性の社会進出のさきがけとして男女共同参画の歩みと並行するように人生を切り開いてきた冨永さんにお話をお伺いしました。
「県の水道料金問題審議委員」に初めて任命された当時は、行政への女性の関わりかたについて、「参加」から「参画」へと国の政策が進化し、女性の審議委員の比率を3割に増やすという政策の目標がありました。私は30代半ばでしたから、県の水道事業がどのようになっているのか、料金が何を基に算定されるのかなど、基本的なことすら考えたこともなく水を使っていました。日常生活でも身の回りのいろいろなことに関心を持ち、情報・知識が必要だと思うきっかけになりました。
また、自分を一番成長させてくれたのは、民生委員・児童委員、人権擁護委員の経験をもとに、非常勤の国家公務員として裁判所で15年間、家事と民事の調停委員をさせていただいたことです。一人一人のこれからの人生に係る仕事でしたから、より良い条件を選んでもらえるような提案をし、当事者の気持ちに寄り添い、当事者の選択を尊重しながら問題を解決に導くには、法律の知識は裁判所の研修を受けますが、それに加えてそれまで培ってきた自分の人間性を基にした交渉力と判断力などが必要とされます。自分の考えてきた常識がいかに薄っぺらなものかといつも反省しながら、世の中の複雑さに打ちのめされ、それでもなんとか自分も人様の役に立ちたいとの思いにすがって続けてきました。
中でも離婚問題は、家庭的にも社会的にも女性の立場の不公平感を感じ、特に未成年の子を抱えた女性の離婚は、母親だけでなく子供という弱者へのしわ寄せが大きいと思いました。制度を整えることは不可欠ですが、まずは「家庭を築く」ということについて話し合える人間関係が大切です。さらに「家庭を作る学習」を学校教育の中でも学ぶ機会があったらいいと思います。離婚が悪いのではなく、離婚という選択肢を安心して選べるような男女共同参画社会がはやく築かれることを願っています。
これまでの時代は女性の権利というものに取り組んできましたが、今は男性・女性という性別のみならず、LGBTの人たちも含め、誰もが等しく一人の人間として尊厳を持って生きられる社会になっていこうとしています。若い人には、人としての在り方、人格を磨くための学びや努力をしてほしいと思います。パソコンやスマートフォンなどを通じたSNS交流を軽視するつもりはありませんが、直接の人との関わりの中で学んでこそ、思いやりや自分を律する心などたくさんのことを学べると思います。大変なこともあるし、傷つくこともあります。でも傷ついたことでわかることもあります。また、完璧な人や失敗をしない人なんていません。私は失敗の中からのほうが得られたことがたくさんあったと思っています。人間は多くの生物の中の1種類でしかないのですから、人間が生き残るためには、仲良くして助け合うことに知恵を磨かなければと思うのです。
そして若い人がこれから人生を重ねていく上で、経済的自立、精神的自立、生活的自立の3つの自立は必要と感じます。中でも経済的自立は人生の選択肢を増やし、自己実現へ向けての力ともなります。しかし自己努力だけでは難しいと思いますので、法的な制度の整備や政府の支援の一刻も早い実現を期待するところです。経済的自立が出来なかった私が自戒と反省を持って思うことです。
私の場合、特にポリシーがあって公職を引き受けたのではありません。私は跡取り娘でしたから、お婿さんを迎え、家の切り盛りをし、子育てをして夫に仕え、親と同居しやがて親を看取るということが当然とされてきました。両親から就職も許可されませんでした。結婚した夫も家にいてほしいという考えでしたので、就職はあきらめざるを得ませんでした。3世代同居の私のそんな日常が他人からは暇人と見えたらしく、いろいろな役を頼みに来られました。親も夫も、最初は反対しましたが、フルタイムではないので、まぁしょうがないかと黙認してくれました。どんなことも自分の能力や力より、人との出会いやご縁があってのことと思っています。いただいたお話は断らないことに決めていました。「チャンスの神様は前髪だけ」ということわざがあります。それぞれ全く異なる分野のことであっても、やがて繋がったり広がったりと、その時々に誠実に取り組めば、自分の視野が広がったり深まったりして、次のことに役立つことも知りました。
私は50歳近くまで専業主婦で親も同居していましたから、審議委員や民生委員もフルタイムではないため、親の手を借りたり家事を工夫してやり繰りすることで両立は可能でした。もちろん、同じ子育て中の友人達には大いに助けてもらいました。その後、子ども達が就職や進学をして時間にゆとりができるようになった頃に、同居する父の介護が始まりました。その頃就いていた役職で水戸に頻繁に行かなければならず、昼間に家を空ける時間が長くなりましたが、ちょうどその時期に市の社協で話相手のボランティア制度が始まり、それを利用することで、両立の助けになりました。
50年の年月の中にはいろいろありました。父の介護が始まる前には、産休補助の講師として7か月でしたが高校の教壇に立つ機会を得ました。また、介護していた父を見送った50代半ばの頃、就職はあきらめかけていましたが、父を知るかたの推薦で裁判所の調停委員に任じられ、70歳の定年まで家事・民事の調停委員を務めさせていただきました。司法員、参与員はその後も続け、75歳まで社会と直接つながっていられたことは、いろいろな面でありがたいことでした。長い時間をかけることで自分の希望がかなったのかなと振り返っています。
余力を残して自分の時間を取り戻すために、現在はいろいろな役職を店じまいしましたが、人生を豊かにするための私の生涯学習は今も続いています。学びかたはいろいろ変化をしながらこれからも続けていきたいです。
(生涯学習のきっかけは、)限られた環境の中で甘んじると、井の中の蛙になりそうな自分が怖かったので、40代前半に大学の通信教育部の3年生に編入したのが始まりでした。私にとって大学は人脈の宝庫でした。年齢・職業・経歴など異なる社会人・学生や指導教授との出会いがあり、豊かな人間関係を築くことが出来ました。今でも交流しご指導をいただいている教授のかたもいます。学ぶことが楽しいと思えたのもこの時からです。
知りたい・学びたいとの好奇心があれば、大学に限らず学ぶ場所はたくさんあります。出かけることができなければ、本を読むことも手段の1つです。私の場合は好奇心というより野次馬なのかもしれません。これからもこの野次馬アンテナがさびないようにしながら、まだまだ楽しもうと思っています。
私は男女共同参画のはしりから公職に就くということがきっかけで関わってきました。男女共同参画は女性の社会参加から、女性の意見を政治に生かす参画へと変化していきました。そんな中で私は最先端にいる人たちの講習を積極的に受けて社会の動きを学ぼうとしました。ある時、「市川房枝記念館」で政治への参加をめざす女性のための講座があり、受講しました。人数限定(40名)、期間は5日間、受講料は3万から4万円くらいしたと思います。なぜ受講したかといえば、講師に当時の国連人権委員会日本政府代表の緒方貞子さんがいたからです。生で身近にどんな話が聞けるかと胸おどる思いでした。もちろん、世界から見た日本や、これからの日本についてなどを学び、有意義な5日間でした。そのように意識を持って自分で動いてきたことが調停員の仕事に生きたのではないかと思います。調停員として、人の心に寄り添い、これからの人生の選択をサポートするためには、どんな選択肢があるのか、たくさんの「引き出し」を持っていなければなりません。「こうすべき」と選択を決めつけるのではなく、「こういう道もある」と選択肢を提案すること、女性が不利な形にならないようにアドバイスすることが必要です。男女共同参画の視点がそういうことにつながっているのです。
取手市市制50周年にちなみ、取手市男女共同参画紙「風」では、市民から「50」にまつわるエピソードを募集しました。その中で夫が50年以上日記を書き続け、妻が金婚式を目指したいという並河日出夫・やよいさんご夫妻に、二つの「50」について、インタビューさせていただきました。
並河日出夫さんが日記を書き始めたきっかけは、先輩からおしえられた「平均年齢を日数にすると人生は約3万日。人生は有限である。無駄遣いをしてはいけない。」という言葉だといいます。そして、「1日1日を大切にした生き方をしよう。自分の生きてきた証を記録しよう。」と思い、日記を始めたそうです。
結婚前の1968年頃から始め、最初は普通のノートに書いていましたが、1つのページに同月同日を10年間分記録することができる「10年日記」が発売され購入したことで、同月同日の天気や物価などを記載することができるようになり、それを読み返すことで過去の記録・記憶も思い出されるとのこと。取材当日に持参された実物の日記は、見た目は古ぼけてはいるが、日々の出来事が、細かい字でびっしりと書かれていて、驚くことばかり。それが、年度別日記を含め、なんと数十冊もあります。
50年以上継続して良かったことを尋ねると、「机に向かう習慣が出来て、日々反省が出来ること」と日出夫さんは言います。日記には過去の失敗談も書きます。「記録なくして反省無し」が日出夫さんのモットー。書き続けるコツは「毎日、1行でも書いて、心の平静さを保つこと」。書き忘れることがあっても「すぐに補うことが大切だ」と指摘します。さらに日出夫さんは、書くことが知識の向上にもなり、日記を続けてきたことで「話題が豊富になった」「自分の中の話の引き出しが多くなった」と振り返ります。そして「人生の最後まで書き続けること」が今後の目標だと話してくれました。最後に「日記とは何か」の問いに「生きてきた証である」と日出夫さんは締め括りました。
並河やよいさんは、「私の願う50年は、金婚式50年を無事に迎えること」だと言います。現在結婚44年目で、金婚式まであと6年です。
夫婦円満のコツを伺うと、「人生山あり谷ありですが、お互いに、忍耐力があったこと。相手に、過剰な期待をせず、“自分らしく”を貫いてきたことでは」と。さらに「同じ趣味、適度な運動の継続、ボランティア活動へ参加すること」「それ以外のことはお互いを尊重することが大切」とも。「日々のルーティンを決め、イベントを創り、週間・月間スケジュールを埋める。刺激を受けないと退化する」と話され、充実した日々だと言います。ウェルネスプラザ広場でほぼ隔週でお弁当を夫婦いっしょに食べるなど、生活に変化をつけることも良いことだそうです。
取手生まれ取手育ちのやよいさんは、市広報紙を、毎号隅々まで熟読する“取手愛”に溢れたかた。小学校4年生まで今の福祉会館のところに校舎があった旧取手小学校に通学しました。そのころの本陣通りの八坂神社のお祭りや賑やかだった七夕飾りが忘れられないそうです。「取手は、幼馴染みも多く、災害も少なくて住みやすくいい所」と言います。日出夫さんも、「取手は自然が豊かで交通の利便性がいいね」と続けます。やよいさんは「取手に今よりもっと元気になってもらいたい」、「取手を発展させようという意識を市民全体で共有できたら良い」と50周年を迎えた取手に一層の期待を寄せていました。
今回ご紹介したほかにも市民のかたからいくつかのエピソードが寄せられました。取手市ホームページ内のこちらのページでご紹介しています。
ご応募ありがとうございました。
4人の市民編集員が取材を通じて感じた「50」にまつわる一言エピソードを紹介します。
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