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埋蔵文化財センター第53回企画展「史実と伝説のはざま」は、令和6年9月29日(日曜日)をもって終了しました。会期中、大変多くの皆様にご来館いただきまして、誠にありがとうございました。なお当面の間、引き続き企画展の展示を一部を除いてそのままご覧いただけますので、ぜひお立ち寄りください。
(注意)9月30日(月曜日)より、通常通り休館日が、土曜日、日曜日、祝日、年末年始に戻ります。
企画展については、以下のリンクから詳細に移動します。
埋蔵文化財センターについて詳しくは、施設案内の「埋蔵文化財センター」のページをご覧ください。
市内に残る伝説の中から、平将門、源頼政、大鹿城をめぐる合戦、佐倉惣五郎の四つを取り上げ、伝説が生まれ、それが人びとに受け入れられ、そして現代に至るまで語り継がれてきた背景を探り、その魅力に迫ります。
また、市が令和5年度に寄贈を受けた田中正造直筆の和歌掛け軸を特別公開します。寄贈後初の公開になります。
令和6年7月23日(火曜日)から9月29日(日曜日)まで
(注意)会期は終了しましたが、当面の間、引き続き企画展の展示を一部を除いてそのままご覧いただけますので、ぜひお立ち寄りください。
午前9時から午後5時まで(入館は4時30分まで)
会期中の月曜日(8月12日、9月16日、23日を除く)、8月13日(火曜日)、9月17日(火曜日)、23日(火曜日)
(注意)9月30日(月曜日)より、通常通り休館日が、土曜日、日曜日、祝日、年末年始に戻ります。
無料
大正11年(1922年)に刊行された寺田喜久氏の『相馬伝説集』には、小文間村に源頼政の墓があり、手足の病が直ると人びとの信仰を集め、頼政大明神の小旗が立ち並んでいると書かれています。
この板碑は、『取手市史』古代中世史料編には「らいしょうさま」と呼ばれていたとも書かれています。
平成28年(2016年)に、板碑は所蔵者から市に寄贈され、現在は取手市教育委員会の所蔵になっています。
今回が寄贈後初の公開となります。
平安時代の終わり頃、源平合戦の時代に活躍した武将にして歌人の源頼政は、取手とどのようなかかわりがあったのでしょうか。
現在の取手競輪場のあるあたりには、江戸時代以前お城がありました。大鹿城を最初に築いたのは平将門とも、大鹿城主であった大鹿氏は将門の子孫とも言われ、将門の伝説に彩られています。
競輪場の南端には、本丸跡と呼ばれた遺構が残っていましたが、昭和40年代の開発により消えてしまいました。
かつての大鹿城の姿を、残された写真と見取り図から偲びます。
利根川の堤防の辺りから北側、現在の取手競輪場を望んだ写真です。
正面の台地が今はなき本丸跡です。
木が切り倒されているのは、開発が始まったからでしょうか。
また台地の手前、水田の中には、伝説の大鹿城主織部時平(おりべときひら)の名馬「白鹿(はくろく)」を葬った鹿塚(ししつか)が見えます。
鹿塚の跡は、現在は城山公園となっています。下記の写真になります。
利根川堤防と大鹿城のあった台地の間は、現在では住宅地となっています。
下記は、本丸内のほぼ中央から東を望んだ写真です。
本丸内は平らで、手前側は農地として耕作されていたようです。
奥には立派な土塁がめぐらしてあるのが見えます。
蔵重一彦氏は、唱和47年(1972年)に独力で大鹿城の見取り図を作成しています。
現在の競輪場を含めた全体図と、本丸を中心とした南側の2枚になります。
蔵重氏作成の大鹿城見取り図が、展示資料として公開されるのは、今回が初めてです。
大鹿城見取り図(全体)
大鹿城見取り図(本丸)
芝居や講談で有名な佐倉惣五郎も、取手とのかかわりがあります。
惣五郎は将門の子孫であるとか、将門の子孫の千葉氏に仕えた木内氏の出であるとか、将門とのつながりがあります。
佐倉藩主堀田正信の重税に苦しむ佐倉藩の領民は、惣五郎を含めた6人の名主を総代に立てます。
その一人が市内小泉村の名主半十郎です。
(「木内宗吾一代記」個人蔵)
一番左側が小泉村の半十郎、右から二人目が惣五郎です。
半十郎らの力を得て、苦難の末に惣五郎はついに上野寛永寺に参詣した四代将軍徳川家綱に直訴します。
(「日本之義民 木内宗吾直訴之図」個人蔵)
直訴は取り上げられ、佐倉藩の領民は重税からは解放されましたが、惣五郎は妻と幼い四人の子どもたちとともに哀れ刑場の露と消えました。
小泉村の半十郎も罪を得ましたが、屋敷内に東照大権現(徳川家康)を祭っていたため死罪は免れ、出家して諸国を巡礼し惣五郎と家族の菩提を弔ったそうです。
下がその東照大権現を祭る石祠(せきし)です。
昨年(令和5年)、市民から田中正造直筆の和歌掛け軸が市に寄贈されました。
田中正造は、日本の公害問題の原点と言える足尾鉱毒事件の解決に心血を注ぎ、衆議院議員として帝国議会で政府の責任を追及し、ついには明治天皇に直訴して世間を震撼させた人物です。
この掛け軸には、寄贈者のご先祖様のために書いたことを示す為書きがあり、取手の歴史と田中正造がかかわっていたことを今に伝える貴重な歴史資料となっています。
田中正造は、その言動から義人と称えられています。
義民と言えば江戸時代の佐倉惣五郎、義人と言えば明治時代の田中正造、その二人と取手は深くかかわっていたのです。
なお掛け軸は寄贈後初の公開となります。
(注意)講演会は終了しました。多数のご参加ありがとうございました。以下の内容は参考情報となります。
将門を知る歴史史料としては、「将門記(しょうもんき、またはまさかどき)」があります。
「将門記」に下総国相馬郡の事が書かれているのは、将門が新皇を称し王城の地を定めた時に、相馬郡の大井を京の大津に見立てたとの記述のみです。
「将門記」や確実な歴史史料、考古学の成果などから将門王城の地の史実を解明していきます。
『将門記』王城の地について
福祉会館講座室A・B(取手市東1-1-5、市民会館隣)
令和6年8月24日(土曜日)午後2時30分から午後4時(午後2時開場)
山路直充氏(市立市川考古博物館学芸員)
無料
120人(当日受付順、申し込み不要)
(注意)講演会は終了しました。多数のご参加ありがとうございました。以下の内容は参考情報となります。
取手に残る将門伝説で有名なものに、「将門は取手で生まれた」があります。
将門の系譜をたどり、将門が取手で生まれたとの伝説が生まれた理由に迫ります。
平将門は取手で生まれたか
福祉会館講座室A・B
令和6年9月7日(土曜日)午後2時30分から午後4時(午後2時開場)
埋蔵文化財センター職員
無料
120人(当日受付順、申し込み不要)
会期中、以下の日程で埋蔵文化財センター職員による展示説明を行います。
各回とも取手市埋蔵文化財センター展示室
無料
なし(申し込み不要、直接会場へ)
(注意)施設内が混雑する場合は、入場制限をさせていただく場合があります。ご了承ください。