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江戸幕府が成立し、安定期に入り始めた寛永年間(1624から1644)、関東郡代となった伊奈半十郎忠治は、洪水を防ぐために鬼怒川と小貝川を分離しました。そして取手市戸田井付近の台地を切り開き、利根川と合流する今のような小貝川の流路が完成しました。
小貝川は鬼怒川と切り離されることで川の流れが安定し、寛永7年(1630)には岡堰が設けられました。岡堰にためられた水が用水となり、相馬二万石と呼ばれる広大な新田が誕生しました。
しかし、工事は現在のように簡単ではなく、多くの労力と様々な失敗を繰り返しながら行われました。勢いの強い水の流れを変えるために、萱と竹を使った独特の工法である「伊奈流」が苦労の末に編み出されました。昭和に入ってからも、人々は堤防や堰の決壊時には、この伝統的な工法である「伊奈流」で危機を乗り切ってきました。
明治の末近く編さんされた取手市山王(旧山王村)地区の郷土誌の中に描かれた岡堰の全景です。岡堰普通水利組合の事務所をはじめ、堰枠手前の煉瓦造りの資材置場やレールが目につきます。
岡堰は古来、景勝地とされてきましたが、とくに、明治32年、煉瓦造りに改築してからは、赤茶色の明治的西洋風の構造物が青色の水に影を落とし、周囲の樹木の緑に映えて、一層その名が高くなりました。
それ以前の明治19年4月3日、北白川能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)が岡堰を巡覧されてその風光を称賛され、桜樹植付料を賜ったので、当時の北相馬郡長の広瀬誠一郎が堤防上に植樹して以来、一躍、桜の名所として名を馳せました。花見客が押し寄せた頃、堰周辺は人々の山で、かき氷やアイスコーヒー、冷やしラムネが飛ぶように売れたそうです。それに使う氷は冬、川から切り出し、右岸下の煉瓦造り倉庫に、おが屑をかけて保存されていました。
毎春、花の咲くころは、数千人の花見客で賑わい、サーカス小屋も張られたほど。しかし、昭和28年以降、堰が全面改修され、名物の桜も姿を消し、その一部が残るのみですが、今でも春にはたくさんの人が訪れて桜の花見を楽しんでいます。
秋になり、小貝川沿いに広がる黄金の帯は、相馬二万石と呼ばれてきた豊かな取手の象徴です。川と闘いながら川の惠を享受してきた市の歴史をさかのぼると、江戸時代に川の道を作った関東郡代、伊奈半十郎忠治に行き着きます。
現在、小貝川の川筋はサイクリングロードとして整備されたり、コスモスやポピーが植えられ、市民の憩いの場となっています。歴史は過去から現在へと流れています。苦闘と英知の上に成り立っている郷土の川の歴史を、私たちは忘れることはできません。