現在位置 ホーム > 市政情報 > 取手市の紹介 > 市のプロフィール・市のあゆみ > わがまち取手市のあゆみ > わがまち取手市のあゆみ(2021年から2030年)
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取手という地名は、戦国時代に大鹿太郎左衛門(おおしかたろうざえもん)の砦があったことから、名付けられたといわれています。しかし、平安時代末の11世紀には、伊勢神宮の相馬御厨(そうまみくりや)として、取手市周辺がすでに史料に記されており、さらに13世紀になると、稲村、戸頭、高井、大鹿などといった地名も、相馬氏の領地として史料に現れはじめます。また、市内からは、中妻貝塚や向山貝塚などといった縄文時代の遺跡をはじめ、旧石器時代から奈良・平安時代にかけての遺跡が78カ所も発見されており、古くから人々の生活の地であったことがわかります。
水戸街道が天和・貞享(てんな・じょうきょう)年間(1681年から1688年)につけ替えられると、取手は北相馬地方の中心を担う宿場町として発展しました。その名残は、今でも取手宿本陣にみることができます。そのころになると、利根川を利用した水運も盛んになり、戸頭・取手・小堀には河岸が設けられ、特に小堀は荷物の積み換え河岸として栄えました。その一方で、利根川や小貝川に面していた取手市域は、度重なる水害に悩まされました。特に、吉田、青柳などは低地のため被害も大きく、今でもこの地に残る水屋が当時の水との戦いを物語っています。
明治維新を迎えると、明治4年の廃藩置県によって市域は印旛県に属し、さらに明治6年には千葉県に、明治8年には茨城県に編入されました。また、明治18年の地積編成によって取手宿と大鹿村が合併して取手駅となりました。明治22年には市制町村制の施行により、取手町(取手駅・台宿村)、寺原村(寺田村・桑原村)、井野村(長兵衛新田・青柳村・吉田村・小堀村・井野村)、稲戸井村(稲村・野々井村・米ノ井村・戸頭村)、高井村(上高井村・下高井村・貝塚村・市之代村・同地村)、小文間村の1町5カ村が誕生しました。
その後、昭和22年には、井野村と取手町が合併して取手町となり、さらに昭和30年2月には町村合併促進法により、取手町・寺原村・稲戸井村・高井村・小文間村が合併して新しい取手町が誕生しました(高井村のうち同地村は、守谷町に合併)。
昭和40年代の高度経済成長期には、首都圏近郊都市として、県下初の日本住宅公団による住宅団地の開発や民間による宅地開発、及び民間大手企業の進出により人口が急増し、昭和45年10月には県内17番目の市制を施行し取手市が誕生しました。昭和50年代に入ってからも、住宅・都市整備公団による戸頭団地をはじめとした宅地開発が進み、それらに対応した都市基盤の整備にも力が注がれました。昭和57年11月には地下鉄千代田線の取手駅までの相互乗り入れが開始され、同年12月には関東鉄道常総線の複線化が完成するなど、首都圏からの南の玄関口として発展してきました。
昭和60年代から平成にかけては、取手駅周辺地区の開発や東京芸術大学取手校地が開学、後に先端芸術表現科が開設されたことを契機に、市民・大学・行政が一体となってまちづくりを進め、文化創造・発信の地となるよう様々な事業を展開してきました。
そして、平成17年3月28日には、取手市と藤代町が合併し新たな歴史の扉が開かれました。
平成23年には関東鉄道常総線にゆめみの駅が開業し、平成27年には上野東京ラインの開通に伴い常磐線が品川駅まで直通となりました。近年は、魅力ある中心市街地の形成や新しいまちづくりを推進するとともに、シティプロモーションにも力をいれ、取手の魅力を発信しています。首都圏の近郊都市として、利根川や小貝川の恵まれた河川空間を活かし、さらに住みやすい、選ばれるまちづくりを進めています。