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更新日:2023年12月26日

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取手の橋を訪ねて(その2)(飯島章)

今年、令和5年(2023)も今日(12月26日)を入れて残すところ6日となりました。
今回は、「取手の橋を訪ねて」の(その2)になります。

相野谷川(あいのやがわ)に架かる土橋(どはし)

今回紹介する橋は、前回に続き江戸時代には水戸街道であった道にあります。
場所は下の地図をご参照ください。前回紹介した釜神橋よりは、やや南にあります。
橋は、相野谷川に架かっています。このあたりでは、相野谷川が長兵衛新田と小泉の境界となっています。
平成17年(2005)3月28日の旧取手市と旧藤代町との合併以前は、取手市と藤代町との境界でもありました。写真は下になります。左が北側で、右が南側になります。
旧水戸街道の相野谷川に架かる土橋(遠景)
もう少し近づいた写真が、下になります。橋はコンクリート製です。
旧水戸街道の水戸街道に架かる土橋
道路にはセンターラインが引かれ、右側(東側)には歩道もつけられています。下の写真です。
旧水戸街道に架かる土橋の道路面
南東側の親柱には平仮名で「どはし」と彫られています。下の写真です。
親柱に彫られた「どはし」の文字
北西側の親柱には漢字で「土橋」と彫られています。下の写真です。
親柱に彫られた「土橋」の文字
この橋の名称は「土橋」で、「どばし」とは濁らずに「どはし」と読むようです。
また北東側の親柱には「相野谷川」・「旧陸前浜街道」、南西寄りの親柱には「平成2年2月竣功」と彫られていて、平成2年2月に竣工していることがわかります。橋が架けられた平成2年からは、すでに33年がたっています。
親柱に彫られた「相野谷川」と「旧陸前浜街道」の文字

親柱に彫られた「平成2年竣工」の文字

土橋の名称の由来

さてコンクリート製のこの橋が、なにゆえに「土橋」(どはし)と呼ばれているのでしょうか。
おそらくは、江戸時代に水戸街道のここ相野谷川に土橋が架けられていたことに由来しているかと思われます。
土橋とは江戸時代に架けられた橋の種類の一つで、橋げたに丸太を並べて作ります。
丸太をただ並べただけでは、人が歩いたり荷車や牛馬が通るときにデコボコして通りづらいので、丸太の上に土をかぶせて路面を平にしたのです。イメージとしては、土で舗装するようなものです。

下の図は、『土木工要録(どぼくこうようろく)』付図にある「土橋之図」です。
『土木工要録』にある土橋の図(国立公文書館デジタルアーカイブ)
(国立公文書館デジタルアーカイブより)
『土木工要録』は、明治新政府の内務省土木局(現在の国土交通省の前身の一つ)が、江戸幕府の有した土木技術を調査・整理し、継承するために明治14年(1881)3月に刊行したものです。
学生時代、江戸時代の土木構造物の形態がいくら文献を読み込んでもさっぱりわからずに往生していた時に、先輩が「『土木工要録』の付図を見るといいよ」と教えてくれました。『土木工要録』付図を開いたとき、それまでの疑問が一気に霧散し、まさに蒙(もう)が啓(ひら)けたのが、昨日のことのように思い起こされます。

それはさておき、この土橋とほぼ同じ橋が、今でも市内にあります。
写真は下になります。
西浦川に架かる土橋
場所は市内清水地区、六郷小学校やJR常磐線の踏切近くの西浦川に架かっています。
橋げたの上に丸太を並べ、さすがに土ではありませんがコンクリートで舗装しています。
道路面の状況は、次の写真をご覧ください。
西浦川に架かる土橋の道路面
この橋を初めて見た時、「今でも土橋が架かっている。」と驚いたことを覚えています。

旧水戸街道の相野谷川にも、このような土橋が架かっていて、その名称が現在のコンクリート製の橋にも引き継がれているのではないかと考えられます。

最後にお詫びとお礼

今回は(今回も)思いのほか長文となってしまいました。
それにもかかわらず、最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。
本年の「月木SAY」(げつもくせい)のささやきは、今回が最後になるかと思います。
この場をお借りしまして、今年1年間のお礼を申し上げます。
それでは皆様が良い新年を迎えられますことを、心よりお祈り申し上げます

 

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